Q | UFO、宇宙人来訪???中国でのUFO研究の第一人者が・・・・。以下の記事をどう思いますか?http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100807-00000526-san-intあと「中国科学院」とはどのような組織ですか?超常現象 オカルト 物理 超心理学 |
A | ごめんなさい、中国科学院というものは存じていませんが気になる記事でしたので。すごいですねこの予測。末尾に1,2,7がつくといえば近いのは来年と再来年にあたる2011年と2012年ですね。私は昔からUFO、宇宙人の存在を信じていましたが個人的にもそろそろ来るのではないか。。と思っていたところで、嬉しいような怖いような複雑な心境です。ですが今の人類はとても野蛮で、恐怖にかられると暴力に走ってしまうのが現状のようです(生物学的に仕方ないそうですが)。まぁ次元が違いすぎる宇宙からの訪問者に対して未熟すぎる地球文明自ら攻撃をしかけるなんてことが絶対ないですが、是非愛を持って招待してほしいものです。ですが地球にはもう沢山の宇宙人が訪問、滞在していると思います。 |
Q | 小泉八雲について小泉八雲の怪談話に惹かれて、今では彼の本を制覇しようと頑張っています。怪談話の多くは島根県が舞台となってますよね。特に松江が。彼が松江に来たからこそ良きパートナーに出逢えたのは分かります。しかし、なぜ彼は松江に行こうと、住もうと決めたのか、松江の何に(あるいはどこに)惹かれたのか、正直気になってます。たぶん調べればわかるとは思いますが、夏休みも終わってしまい今ほど本も読めなくなるので、よろしくお願いします。 |
A | まず、日本に来たいきさつとして、当時住んでいたニューオリンズで開催されていた万博で東洋の神秘さに興味をもち、そこで外務省の服部一三と知り合う。その後、当時勤めていた雑誌社から日本の取材に行く事になるが、その途中で、雑誌社との契約が破棄になり、服部一三に松江の学校で英語教師を探してると言う話を貰い松江に行く事に。松江に来たハーンは昔のままの日本が残ってる松江にすごく惹かれました。これは「神々の国の首都」というハーンの本に詳しくかかれています。朝はお寺の鐘の音からはじまり、人々の生活の音が聴こえる。木造の橋を下駄で渡る「カラコロ」という音。宍道湖にかかる朝もや。そして、なにより「古事記」にも興味を持ち、神社などもまわっていたそうです。その後、あまりの松江の寒さに耐えきれなくて1年3ヶ月で松江を去ったと言われてます。そして、熊本に行くも、そこの学校の人とウマがあわず、神戸、東京と移り住みました。再び松江を訪れることがありましたが、その頃には松江も近代化が進みハーンがいたころの松江とは違っていてがっかりしたそうです。ハーンの来た当時の松江には、日本でも消えつつあった昔の日本が残っていたのです。ハーンにとってはこの「昔の日本」がとても神秘的に見えていたのでしょう。日本では「怪談」を書いた事で有名ですが、海外では日本を紹介した人として有名です。松江では綴りの読み間違えから「ヘルン」と呼ばれてました。昔、NHKで放送された「日本の面影」というハーンのドラマがありました。島根ではこれを再放送されてて、大体こんな話でした。まさに、ハーンは松江に昔の「日本の面影」を見てたのかもしれませんね。 |
Q | 「平安時代に死刑が」の質問に御回答下さって有難御座居ます。見事に御回答下さいました。何と申し上げてよいのかと考えましたが、他に言葉が見付かりません。3月27日付「織田正吉氏の“百人一首論”についての御回答中の、「その後、柳田民俗学や歴史学の書を読んでいるうちに、古代・中世人の思考の中で、怨霊は重大な要素ではあるが、全てではないということを知りました」と御書きになった意味を理解致しました。御回答のうち、特に重要な部分は次の記述だと考えましたが、何度も読むうちに、全ての記述が重要であると考えるようになりました。「平安貴族は、怨霊を恐れてはいましたが、一方で“怪力乱神を語らず”という儒教的教養をも備えていました。また、すべて臣民は天皇の命に従わねばならないという王土王法思想も持ち合わせていました。この考え方からは、王法に叛いて滅亡した者が祟りをなすのは筋違いというものです。彼らは怨霊を克服する論理を持っていたのであり、怨霊の恐怖の前になす術もなかったのではないのです」「平安貴族の意識には、このような“死穢への嫌悪”と“怨霊の恐怖”が混在していましたが、この二つは往々にして混同されているように思います。両者は一見似ていますが、死穢はある程度までは回避することができ、仮に触れることがあっても物忌み等で回復が可能です。怨霊のように不意に出現して、ときには命まで取られる心配はありません。極論すれば、死穢は後始末が面倒くさいから関わりたくないのであって、恐怖すべきものではありません」専門の研究者が、Kiri 様の御意見を「敢えて」批判するとすれば、どの部分かと考え続け、敢えて批判するとすれば、「彼らは怨霊を克服する論理を持っていたのであり、怨霊の恐怖の前になす術もなかったのではないのです」に対して、「平安時貴族で怨霊を克服する論理を持っていたのは限られた少数のものであった」くらいかと考えました。下記の投稿を致しましたので、御一覧下さいますよう御願致します。「平安時代に死刑が」の質問に御回答下さって有難御座居ます。(続)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1460070674 |
A | さきの回答は、いわゆる怨霊論に対する率直な疑問から始まったものです。見当違いの議論かもしれませんが、皆様になにかのヒントを提供できればそれで良いと考えております。「平安時貴族で怨霊を克服する論理を持っていたのは限られた少数のものであった」との御指摘は、まさにそのとおりと思います。怨霊を理屈で割り切ることのできない階層が存在したのは確かと思いますし、支配者もこれを無視できなかったからこそ、さまざまな怨霊譚ができたのだと思いますが、この問題はまだ整理ができておりません。これから考えていきたいところです。 |
Q | プロレスラーの中で一番カオス(一番最凶)なプロレスラーを1位から3位まで挙げてくださいちなみに僕は1、バカ社長(ザ クレイジー skb)2、バラモン兄弟(佐藤兄弟)3、怨霊(ウルフ小澤)かなby ザ クレイジスト A.Y.U |
A | 1、 ヨシヒコ2、 よしひこ3、 ヨしヒこ |
Q | 祟徳天皇が、日本三大悪妖怪に、入っている理由を教えてください。 |
A | 祟徳天皇は保元元年(1156年)の保元の乱の後、讃岐(香川県)に配流されました。(この時は上皇にすでになっていました。)その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御しました。一説には、三木近安によって暗殺されたともされています。※保元の乱については、ここを参照の事。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1『保元物語』によると讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念しており、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出した所、「呪詛が込められているのではないか」と疑われ、後白河法皇にこれを拒否されました。保元の乱が終結してしばらくの間、崇徳上皇は罪人として扱われたからです。これに激しく怒った祟徳上皇は舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込みました。(保元物語・平家物語)その時、海が泡だったとか怪異が起きたとか、さまざまに言い伝えられています。その後は爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされています。●怨霊伝説・憤死後荼毘に付されたが遺体が3日3晩燃え続け、その煙は天に昇らず京のほうに流れ低く留まった。(白峰寺・白峰御陵)・遺骨は、四国の白峰山に埋葬されたが、埋葬時には、一点にわかに掻き曇り、激しい風雨が襲い、突然の雷鳴も轟き、その棺からは真っ赤な血が流れ出した。(高家神社血の宮(坂出市)にまつわる伝説)・都に疫病、飢饉が流行った。・安元3年(1177年)には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。・安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河法皇に近い人々が相次いで死去したことで意識され始めた。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院(崇徳上皇)ならびに宇治左府(藤原頼長)の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とある。・怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳上皇と藤原頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されている。・京の大火、妖星の出現、源平の騒乱、平清盛の怪死などは皆崇徳上皇の祟りと言われている。・その後も全国の天狗を眷属とし、様々な戦乱、祟りを引き起こす。一例としては、太平記で愛宕山で淳仁天皇や後鳥羽上皇らと天下を乱す相談をしているところが語られている。(天狗評定)その姿は、背中に大きな金の翼が生えたトビとされ、まさしく天狗の王である。・雨月物語では西行に怨みを語る場面がある。・1868年、朝廷は崇徳上皇の神霊を京都に迎え、官幣大社として白峯神宮を創建する。これは、戊辰戦争において上皇が幕府軍に味方することを恐れての事と言われている。・遷座の際の豪雨や、1964年死後800年祭での出火全焼事件、直後の雷雨など、事あるごとにその祟りは囁かれている。・菅原道真、平将門とならび称され、日本史上最大級の怨霊と言われている。しかし、正面切って天皇家を呪ったのは崇徳上皇だけである。●崇徳上皇に対する人々の申し訳ないという気持ち、後ろめたさがあり、何年も経つうちに災害や人に対して何か災いがあると「上皇の祟りではないか」という考えに繋がったのではないでしょうか。出生では戸籍上は鳥羽上皇の長子といいながら、実は鳥羽上皇の女御と鳥羽上皇の父親である白河法皇との間にできた不義の子という因縁付き。わずか5歳で即位したが、その後の権力争いにより、22歳の若さで退位を迫られ、名ばかりの上皇とされる。「保元の乱」を起こすも失敗に終わり、讃岐の地に流され、そこで生涯を終える。死後は怨霊となって祟りを起こす元になる。生前も死後も波乱万丈な方でした。●最後に・・・瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わんとぞ思ふ 崇徳院意味:流れの速い川の水が、岩にはばまれ分かれてしまっても、やがては同じ流れに戻るように、今は離ればなれになる二人だけれど、いつかまた会える時が来る。 |